深海で見る夢

恋じゃない、って分かってる。愛でもない、って言うまでもない。だけど好きだなあと思う。いつも明るくて優しくて、きっと大勢の人から好かれているこの人を、わたしも同じように、好きだなあ、と思うだけ。


お魚食べたいです。真昼、仕事中にわたしがぽろっと言った一言につられて、その人も魚が食べたくなって、それは夜になってもずっとそうで、わたしたちはノイローゼのように魚が食べたくて仕方なくなってしまったのだった。

時計の針が午後八時半を過ぎる頃、彼がわたしに言った、やっぱり今日食べたいよね魚、明日じゃだめ、今日食べたいんだよ俺は魚が。

午後九時過ぎ、わたしたちはなんとか仕事を切り上げてふたりで自転車を漕いで居酒屋に向かった。月曜日の夜、車通りはそんなに多くなく、狭くも広くもない道をびゅんびゅん進んだ。冬はもうすぐ終わろうとしていて、でもまだ少し風は冷たくて、わたしはお気に入りのコートを着ていて、彼の服はあんまり覚えてない。

お店に入るとほとんどのお魚が出ちゃいました、だけど造りは出来ますよと言われて、それでいいです、とりあえず口に入れられたらそれでいいんです魚を。急かされるように注文して、そうやって夜ご飯はスタートした。

飾らない人だから、わたしも飾らないでいられた。あんまり人に話したことないんだよと言って、昔話をしてくれた。職場でいつもなんとなく緊張しているわたしは、みんなともこうやって話せたらいいのに、と何度も思った。似ているところがいくつかあって、それがふたりの言葉をつないでいた。ゆっくりと交わす言葉、あっという間に過ぎる時間、ラストオーダーがあまりにも早く来てしまって、残念だなあと思った。そしてその時に、急速に幸福の深度が深まっていくのを全身で、感じた。

いつだってその途中では、自分が幸せのなかにいることを気付かずに通り過ぎてしまって、過ぎたあと、ああ、こんなにも幸福だったのだと気づく。幸せはいつだって目の前にではなく、さっきまでいた場所を俯瞰して見るときに、そこに残り香のように漂っているのだった。

お店を出て、帰る方向がバラバラなのでそこでさよならをした。彼は奥さんの待つ家へ、わたしは空っぽの家へと帰っていく。ふたりの帰る場所は、永遠に重ならない。だけどこの夜は、永遠だ。

夜なのに眩しくて、時折顔を伏せながら今度はひとりきりで自転車を漕いだ。髪をさらう風が、浮き足立った心をなだめていく。明日にはもう忘れてしまう、うそ、少しは残っているかもしれない。だけど結集しない、結合することもない淡い気持ち。そのまま全部夜に預けて、夜に溶けて、夜が全てを覆っていって、そうなることを願っている。

願っている。