ネガティブの丘からポジティブの海へ

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「ポジティブなところ、尊敬してるよ」と言われてふと気づく、わたしはいつからポジティブになったんだろう?って。


ずっと憧れていた恋は、放課後の教室で初夏の風で揺れるカーテンのそばで同級生と胸キュンな会話をする少女漫画的なものではなく、何考えてるかわからないような日陰の、不健康で友達の少なそうな彼に恋することだった。実際にそういう人に出逢って、好きになったりフラれたり悩んだり暴れたりしているうちに、あっという間に自分も厨二病みたいな、批判的に言われがちなサブカル陰鬱女になっていたのだった。


それがいつからかな、たぶん社会人も5年を過ぎた頃、だから具体的にいうと京都に戻ってきた頃から、自分が触れる社会の広がりがどんどんと大きくなっていって厨二病を抜け出したように思う。それはアラサーになってようやく、遅すぎるだろうけど政治やこの国の社会のことをちゃんと考えるようになったことだったり、仕事を通じて学ぶべき事柄が増えたことや、今まで出会ってこなかった様々なバックグラウンドを持つ人たちに出会って、明るい自分も、鬱々とした自分も、マジメなところもバカみたいなところも全部含めて自分は自分でしかないし、自分以上のものはないし、自分以下のものもないっていう、ひとつの結論に至ったんだった。そこからだんだんと、もうこの先も一生、この自分としか付き合っていくしかないんだったら、できるだけご機嫌に生きたいし、できるだけ人に頼らず自分で自分の感情をお世話できるようになりたいと思うようになって、ポジティブ思考になる道を探し始めたように思う。そういった意識改革において、自分を助けて支えてくれているのが、自分が信じて愛してきた芸術だということが、ただただ嬉しい。


自分でも確かに感じる自分自身の変化の結果なんだろうけど、この前久しぶりに会った友達と話していて、いろいろと思うことがあった。その子とは1年に1、2回のペースで会っているんだけど、その子が務めている会社では女子社員に社員全員分のお茶汲みをさせる文化が未だに残っているらしい。そんでお茶汲みの作法を学ぶための研修が、女子社員だけに行われるらしい。彼女はそれを不満に思いつつも、仕方ないからといってやっていると。


それを聞いて、わたしは思わず「2018年のこの時代に、そんな会社マジであるんや」と驚き、そのまま言葉にしてしまった。以前のわたしなら素通りしていただろうけど、それこそ2018年のわたしが会社でそんなことやらされたら、本気で怒って上司に訴えると思う。野球部のマネージャーをしていた、このわたしがだ。わたしにはそれだけの意識改革が自分のなかで成されたことを自覚しているし、明らかに今までの自分と違う自分になっているとも感じている。


そのあといくつかの会社に対する不満を聞いたんだけど、今のわたしは戦闘モードになっているので、「不満に思うなら訴えればいい」と思ってしまって、でも彼女がそういうタイプではなく、むしろ心が優しい子で人のミスですら綺麗にサーブするような素敵な子だからそれができないのは分かっているから言えなくて、でも言いたくて、というもどかしい時間を過ごしたのだった。


何が言いたかったかって、これが一番言いたかったんだけど、彼女は今の戦闘モードのわたしを見て「あっ、この子少し変わったな。しかもあんま良くないほうに」って思っているんじゃないかな、って。わたし自身は今の自分も大事に思うし、今しかない自分だから、誰かにそう思われたからといって簡単に変えようとは思わないんだけど、きっと大学時代の友達は結構そう思う子が多いんじゃないかなって。なんかそれ、わたしがその子たちと会う度に一種のもどかしさみたいなのをいつも感じるんだとしたら、そして友達が、わたしと会う度にいつも残念な気持ちになるんだとしたら、切ないね。っていう。


だけどもう、何も知らなかった頃の自分には戻れないし戻りたくもない。だからといって、価値観がすべて合う人とだけ付き合っていたら友達なんてひとりもいなくなるし、友達ってそういうことじゃないとも思う。なんか、難しいなーと思ったってことを、忘れたくないからきちんと残しておこうと思う。


まあ最後にポジティブなことでも書くかな。ポジティブなところが好きだよって言ってくれる人と付き合っている。わたしは今の自分が結構好き。そんで男女平等を唱えたりマイノリティのことを勉強してあーだこーだ言うややこしいわたしのことを好きだよって言ってくれるその人のことが大好き。今の自分でその人に出逢えて、本当に良かった。