記憶に生かされる日々


最後に日記を書いたのがもう3ヶ月前とは。時間の流れはあっという間だ。

彼の地の戦争は未だ終わらず、誰がこんなふうに長期化すると予測していただろう?もう一年も前になる旅の写真を振り返りながら、この場所も、あの場所ももう今はすっかり変わり果てているかもしれないと思うと、本当に心から残念だ。

戦争が始まって以降、その旅の思い出話はわたしたちの間でもはや触れられない話題となってしまった。あんなに楽しく、ストレスフルで、二度と経験できない旅の美しさやきらめきを、そのままの気持ちで振り返られないのが本当に悲しい。わたしでさえこんな風に胸を痛めているのだから、母国であるパートナーにとって、この変化はどうにも受け入れ難く、あの頃を振り返るにはあまりにも辛すぎるだろう。

パートナーとの生活が始まってもうすぐ3ヶ月。最初の1ヶ月は浮き足立っているうちに終わり、不安でしかなかったが、この家に自分がフィットして来ているのが最近よく分かる。一方でパートナーとの相性という意味では、本当にわたしたち二人は考え方も価値観も正反対なのだということを毎日痛感している。そのことが刺激的に思える日々は、もしかしたらもう過ぎてしまったかもしれないと思うときがある。楽しいと感じることや、嫌だなと感じることがことごとく異なるのだ。安心を感じたい時に相手は性的なことを考えていて、これこそが自由だと考えているときに相手は宗教観に反していると認識するような、そういうすれ違い。一緒に楽しめることを探すほうが困難かもしれない。

自分によく似た嗜好、よく似た考え方、よく似た価値観の人と一緒にいられたらどれだけ楽だろう?と考えたりもする。同時に、そんなに都合のいい人間はそうそういないのも知っている。運命とかを信じる年頃はもうとうに過ぎた。だけれど、いろんなドラマや映画を見ていると、わたしもそういう経験を一度でいいからしてみたかったと思う。来世でも今のパートナーと出会いたいかと言われると、友達としては出会ってみたいが、パートナーとしてはもういいかな、、という感じ。そう思ってしまうことが、少し悲しい。今のパートナーはわたしの背中を押し続けてくれる仲間のような存在。鼓舞してくれるので、わたしが前向きでポジティブなときにはすごく心強い。でもネガティブなときはどうだろう?しかし今までの彼氏で、ネガティブなときに寄り添ってくれる人がいただろうか(いや、いない)。なんかふと振り返ると、陽キャを積極的に選んでるように見えるな。わたしがバカなのかなと思えてきた、心から陰キャが好きなのに。

別れたほうがいいのかなということを少しずつ考えている。また親とかに「あんたって人は」と言われそう。懲りない人間なんですよわたしは。。

今はねえ、イギリスに行って訳もなく街を歩きたいですね。白鳥が優雅に泳いでいた、大きな池のあるロンドンの公園が恋しいですね。強風の中でプリムローズヒルという可愛らしい名前の丘にに座って、キセルを聞いたあの冬が恋しいですね。そういうささやかで愛おしい記憶が、今のわたしを支えているのですな。